2008年上半期 エロゲー売上げランキングTOP50 in とらのあな秋葉原本店

http://blog.livedoor.jp/geek/archives/50694008.html

TOP10が印象的な記事です。「あかべぇ、やるじゃん」的な意味で。

とらのあな秋葉原本店 2008年上半期売上げランキングTOP50より
1位:ToHeart2 AnotherDays
2位:FORTUNE ARTERIAL
3位:G線上の魔王
4位:超昂閃忍ハルカ
5位:つよきす2学期
6位:ef - the latter tale.
7位:プリンセスラバー
8位:暁の護衛
9位:こんぼく麻雀
10位:CHAOS;HEAD
(強調は引用者による)

上記の通り、TOP10内に'あかべぇそふとつぅ'のタイトルが3本ランクインしています('しゃんぐりら'は'あかべぇ'の姉妹ブランド。'暁WORKS'もです)。この時期に、何本もタイトルを出しているメーカーが他にいない、ということもありますが、出したタイトルが軒並み上位にランクインするのは、メーカーとしての勢い(あるいは企画力)の強さを感じます。特に『暁の護衛』に関しては、前作の『僕と極姉と海のYear!!』のパッとしなさぶりからすると、かなりの進歩だと言えます。『こん僕麻雀』と同日発売だった『るい智』は苦戦してしまいましたが……。しかし評判自体は悪くないようなので、企画として間違った方向ではなかったようです。
これだけ続けてヒットを出せるというのは、やはりディレクションが良いのだと思いますが(オーガストが売れ続けるのと同じ意味で)、ただ一つ気になるのは、発売時期が近い事です。
暁の護衛』3/27、『G魔』5/29、『こん僕麻雀』6/27、『るい智』6/27、と、ほぼ3ヶ月の間に集中して発売されています。(『暁の護衛』を入れるのは間違っている気もしましたが)
会社としては、一年の特定時期にしか収入がない、というのはあまり良いことではないので、ラインを複数走らせられるなら、発売時期をずらしたいのが本音です。自社タイトルで顧客を食い合うのも嫌ですし。なのにこうも重なっているというのは(こん僕とるい智に至っては同日)、制作の工程管理が上手くいっていないのでは? と心配になってきます。管理の不具合は、いずれ企画の内容にも影響してきますから、問題があるならば早く解消して欲しいところです。

そして、どんどんゲームを売って頂いて、業界の発展に寄与して頂ければと思います。特に、力と勢いのあるメーカーには。

処女、非処女議論

エロゲのヒロインに処女が合うのは、物語の唯一性を高めてくれる(という思い込み)があるからですよ。

というのは根も葉もない話ですが。もしそうなら、エロイッカイズツ、がもっとも物語の聖性を高めてくれるはずで、でも実のところそんなでもないわけで、結局、聖母崇拝的な処女崇拝思想があるのかな? と思ったりもしますが、処女厨ではない俺にはわかりません。

シナリオ構築面での考えとしては、処女喪失という肉体的変化と、物語の結末という精神的結実とを相乗させた物語への効果というのは、かなりのインパクトがあって、シンプルで美しい物語が作りやすいので、そういう面では処女が好まれます。ただ最初は処女でもエッチシーンが二度、三度とある場合は、二回目以降に肉体的変化が起きないので、エッチシーンと物語との繋がりが薄くなりがちです。凌辱系や調教系での、エッチシーンによる精神性の変化、を狙っているとかならやりやすいですけれども。
非処女ヒロインを描く場合、この二度目、三度目と同じように、エッチシーンでの肉体的変化が起きませんので、やはり物語との繋がりが薄くなります。それを補填するために、辛い過去だったり何だったりを設定して、'非処女なのはワケアリだから'とエクスキューズを用意します。単純な設定としてはレイプ被害者とか。

ま、エッチシーンと物語との繋がりなんて、気にすることないんですけどね。そこまで絡みつかれたら、エッチシーンを(本プレイ中に)スキップ出来なくなるじゃないですか。エッチシーンは別腹、として書いておけば、抜きたい時にリプレイモードで見れば済むんだし。

結論:処女じゃないと嫌だとかどうとかは、物語云々とは関係ないところの話のようです。

エロゲの総売上の話

デジクロが亡くなり、PCNEWSも亡くなった今、ユーザーレベルで売上げを調べる方法はなく、語りようもなくなってしまいました。(何年か前のPCNEWSはスキャンして保存してあるのだけど)
販売本数はともかく、出荷ベースなら、ソフ倫は'ソフ倫シール'の販売数を把握してるはずなので、ソフ倫系のタイトルの出荷本数は正確な数字が出せるはずですが(ソフ倫認可のタイトルは、店頭売りもオフィ通も、全部シール貼ってあります。むしろイベント売りのだって)……それが公に出て来ない業界でもあるので、やはり難しいです。メディ倫も、メディ倫担当分はやはり把握しているとは思います。
なので出荷本数の推移なら統計を取れると思うのですけど、その数字って表に出せない契約にでもなってるんでしょうか? 事務レベルのことには関わっていなかったので知らないのですが。
実売本数に関しては、ショップ間のネットワークでは結構共有されてるらしいので、そっち方面からある程度の数字が出せるはずです。でもこれも、仁義があるから表には出しにくい数字なようで……。なんだかんだでアングラな業界ですし、まだまだ秘密主義がまかり通っていますね。オープンにした方がwin-winになると思うんですけどね。ま、これも経営者じゃないからの言い分なのかしら。


制作工程の話は、来週くらいに再開できたらと思っています。

形だけの福井人かッ!? 『プリンセスラバー』(Riccota)体験版感想

ひっそりと『プリンセスラバー』の体験版をやりました。こもりけいさんの絵は嫌いじゃない……出来上がったCGのクオリティはびみょい気もしますが。
ともかく内容はさておいて(それもどうか)。
プリラバの主人公・哲平は、福井県人だそうです。作中で言っておりました。福井県出身だと。そして庶民だと。プリラバの舞台はお金持ちの子息子女が通う、セレブーな学園です。タイトルからもそれが読めますね。ヒロインも、お姫様やお貴族様や若者のカリスマデザイナーや、いかにも設定な女の子達がひしめいています。楠鈴音の凛々しい演技が中では好みです……て声優の話もさておき。
そういう設定の話なので、庶民とお金持ちヒロインとのギャップがコメディ要素になっているのは、想像に難くないわけです。体験版の中でも、それは存分に発揮されていると言って良いでしょう。
庶民とお金持ちとのギャップは、いたる所にひそんでいます。日常そのものがギャップありまくりです。日常と言えば食です。庶民と王侯貴族では、日頃食っている物も違うのです!

具体的に言えば、福井の庶民は'蕎麦'を食べます。ごちそうと言えば'とんかつ'です。'蕎麦'はもちろん'越前おろしそば'であり、'とんかつ'といえば'ソースカツ'に他なりません。福井の庶民食とはそういうものです。異論は認めない。王侯貴族の日常食なんか知らん!

さて、ではその主人公哲平ですが、体験版の中でその食事観を垣間見ることが出来ます。ヒロインのひとりとデートをすることになった哲平は、ヒロインのためにたこ焼きを買うシーンがあります。そこで母親に作ってもらった料理の思い出話をしながら故人を偲ぶ、という良いシーンなのですが……

そばととんかつの話が出て来ねえっっ!!!

そばとソースカツの話をしなかったら、福井人の食事観は語れねえだろ? 東京に出た福井人は、ソースカツと越前おろしそばを求めて日夜街を徘徊するのがセオリーだろ! 俺がどれだけっ……。

もちろんさ、店で食べるソースカツは美味しいですよ。ヨーロッパ軒は言うまでもないし、他にも美味い店はいくらもあります。でもさ、ウスターソースとトマトケチャップをブレンドしたソースの、チープな味わいが一番なんです。手軽な家庭料理なんです。それが福井人の家族愛なんです……おふくろの味なんです。

それらを語らずに何が福井人か!! シナリオライターは謝れ! いますぐ福井人に土下座しろ!*1

しかし、郷土愛に溢れる俺は、プリラバを予約してしまいそうなのでした。

*1:もちろん冗談

必要なのは、知識ではなく理解だということか

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080518/1211038930

はじめて小説を書こうという人には、まず小説を読め、と俺は言います。この「読め」というのは、無数の名作をできるだけ多く読め、というのではなくて、何かひとつ気に入った作品を「百ぺんは読め」という意味です。

「よし! とりあえず書いてみるぜ!」 → 「うわっ、つまんねぇのが出来た」 → 「ちくしょう、もう一度書いてやる!」

というサイクルがイキナリ出来る人には、何も言いません。時折教本を示唆するくらいです。


"SF千冊読め"というのは、「SFとは何であるか?」を知るためにはそのくらいの読書量が必要だ、という意味でもあります。多分。俺の発言ではないので推測しか出来ませんが、俺が言うならそのような意味で言います。そして「SFとは何であるか?」を知るためには、SF千冊読むのでも、『夏への扉』を100回読むのでも良いと思うのです。もちろん『幼年期の終わり』でも良い。『ニューロマンサー』はオススメしませんが。モノ作りSFが好きな俺は『楽園の泉』がお気に入りだったりします。
友人と感想を言い合うのなら、どんな読み方をしても構わないでしょう。1,2冊読んでSFを語っても、漫画を語っても、『白い巨塔』を読んで医療問題を語ってもいい。しかし、不特定多数の人間に、意味のある言説を語ろうとするならば、対象への充分な理解が必要となります。不特定多数の人間が持つ理解より、より深い理解を持つ、ということです。
SFを千冊読むことは、各作品を比較検討することから共通項を得、異なる項が何故異なっているのか、を理解することでSFへの理解を深めようという手法であり、1冊を100回読むことで得られたその作品への深い理解を、他のSF作品にも演繹する手法です。どちらもSFを語るために必要な理解を得るための行為です。
リンク元

だから、もし本当にSF小説を語りたいなら、読むのは一冊(多くて二冊)で良い。但し、それは重要な作品である必要がある。そして、それが重要な作品なのだということを、しっかり感じながら読む必要がある。それさえできれば、あなたは自信を持って、SF小説について語ることができるだろう。

この部分が、そういう意味であるなら良いのですが、名作に一度目を通せば良い、という意味ならば、異を唱えたい。SFに限らず、物事はそのように浅薄なものではありませんから。

aurelianoさんが、リンク元のようにさらっと言えてしまうのは、

特に中学3年生の時は、マンガが好きだったから、出版された全ての男性向けマンガ雑誌を読んでいた(少年向けから大人向けまで)。当時の書店は立ち読みができたし、また出版点数も少なかったからそれが可能だった。

という経験のために、作品を分析する力を獲得しているためと思われます。ひとつのジャンルを総ざらえしたことがあるなら、そこで得た理解を他ジャンルに行った際にも利用できますから。"ひとつの作品を100回読む"のと同様に。

なので、いずれのジャンルも極めていない人にはやはり、SFを語るためには「SFを千冊読め」と言うべきだし、あるいは「名作を100回読め」と言いたいのです。

自分が楽しいと思っていること、それを伝えればいいのに。「どうして勉強しなくってはいけないの?」への答えとして。

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070121/1169414343
http://d.hatena.ne.jp/oredoco/20080519/1211157475

日本では、社会に出ると勉強の大切さや面白さに気付くものですが、子供から「どうして勉強しなっくてはいけないの?」という質問に対して、自分の素直な気持ちを語れないものでしょうか。

働き始めると、ビジネス書やら講談社α文庫やら新書やら……色んな本を読みますよね。内容を把握、理解して、実践しようとしながら、次の本を読んでさらに取り込んで、試行錯誤して自らの生に活かそうとするのは、非常にスリリングで興味深い体験です。社会人になってから、「学生の時にもっと勉強してば良かった!」と後悔するのは、そういう面白いことを見逃していたことへの後悔です。大人はそういう事を語ればよろしい。
語っただけでは実感させられないので、そういう体験をさせればよろしい。本を読ませて、わからないところには前提となる知識が在ることを教えたうえでその知識を与え、子供が理解するまで段階を押し下げる。知識は自然と学校教育で知られる知識まで下がるはずです。(というかそうなっていてくれ)
事実、自分が興味の発端となるキーワードは、大抵小中高の間の教科書に載っていた事項(国語、歴史、数学、化学、物理、道徳、保健体育、美術、音楽……なんでもです)から始まっている。南京問題も、聖徳太子も、フラーレンも、逆二乗の法則も、教科書にヒントが書いてあったから、今になって興味を抱ける。
理想論でなく、実感として「勉強は面白いんだよ」と伝えればいいし、そうする事の不都合を自分は感じない。

別に本に限らなくなって構わないんです。自分が好きだと思っていること、楽しんでしていること、どうしてそれを続けているのか、を語るだけでいいんです。
今ビジネス書を読んでいるお父さん。お子さんと一緒に読んだらいかがですか? きっと興味深い知的体験が出来ると思いますよ。


と、もし俺に子供がいたら、そのように伝えたいと思っている独身男です。
あくまでも、勉強する事への純粋な疑問として、その質問をぶつけられた時の話ですが。逃げる子供への説教としては、通じないと思います。


P.S.
id:oredocoさんの

理系では意識的に、言葉の定義をしてから議論することがすくないというかないと思うので、オレドコ分からないんですね。どうも文系では言葉の定義をきちんとしてから、議論をしてるようです。

には是非とも反論したいです。四則演算の各操作に対してさえ定義をする(時には真面目に、時にはおちゃらけとして)のが理系体質というものなので、理系は厳密に用語を運用しようとします。理系というよりは、物理学、数学、情報学辺りの特徴かもしれませんが。
何かへの皮肉として書かれたものでしたら、すみません。謝罪します。

と、これが一番言いたかった事かもしれない。笑。

追記

oredocoさん、コメントありがとうございます。

>議論する前に、いちいち確認しないで、そういう前提が当然あるべきものとして進める傾向にあると思ってます。

数理モデルプログラミング言語という、厳密に定義されているものを用いて議論をする前提があるから、確認しないのだと思います。その点では、一つ一つの議論毎に定義しない、と言うのは認識は正しいです。

文系では、自然言語という曖昧なモノで議論しなければならないので、だから議論の最初に言葉を定義するのかもしれません。周りには理系人間ばかりなので、推測でしかないですが。
アカデミックに厳密な議論をしていくには、言葉の曖昧性や二義性を排除していかなければならない、のだと思います。理系とか文系とか、関係ないのかも。

時には雑文で行こう

"はてな村"というものがあるらしいです。

はてダを使っていながら、その名称のインターネットコミュニティをまったく意識&認識していなかったのですが、はてなサイトのトップページのエントリを眺めていて、「ははぁ、こういうことを指していたのか」と、遅ればせながら認識しました。

ネットを介在させようと、それは実在する人間とのコミュニケーションである……というのが信条の俺とは、認識を異にする方々のコミュニティに思えました。ちょっと怖いくらい。

だが逆に、実在する人間とのコミュニケーションだからこそ、あの生々しい感傷のぶつかり合いが起きるのかもしれない。

よくわからない。

今回は、その実相のひとつを垣間見たけれど、まだまだ色んな側面はありそうで。

でもちょっと、クローズドすぎるコミュニティかな。