『はぴねす!』第10話「過去」
大設定の大暴露話の回。「実はこれこれこういう事だったんですよ〜」というのは、簡単に状況をひっくり返せて、作り手としては非常に楽にドラマを演出できる便利な手法である。謎めいた演出やフレーズを繰り返し、ある一点でそれらの意味が収束するかのような設定を見せつけると、カタルシスに感じてしまうのである。
まあ、それは良い。アニメや漫画や小説や映画やetc...非インタラクティブ・メディアで行われることに関しては、最高とは思わないが、良い手法だ。
だが、ことゲームなどのインタラクティブ・メディアではどうか? 特にゲームは、プレイヤーがゲームに介入することこそがカタルシスである。コンピュータゲームのADVであったも、選択肢によってキャラクターの反応が変わったり、恋愛対象が変化することが楽しいのである。だが「過去設定」*1というどんでん返しはそれを否定する。「過去設定」は、キャラクターのこれまでの行動と、これからの行動をすべて規定する、強力無比な宿命である。物語のキャラクターはすべからく宿命から逃れることはできない。
ゆえに、世界への介入を拒否する(なかったことにする)「過去設定」は、ゲームと相性が悪いと思ったのだが……
プレイヤーの介入を拒否できるからこそ、「過去設定」はゲームと相性が良いのかもしれない、考え直したのである。ここから先は過分に"作り手にとって"の考え方であるのだが。
「過去設定」は、ある時点までのプレイヤーの入力如何に関わらず、明かした以後のキャラクターの行動を一意に決定できる。よって、それまでに発生していた「キャラクターと物語の齟齬を吸収」*2してしまえるのである。キャラクターがどんな状況におかれていようと、強引にクライマックスに向けて物語を牽引できるのである。しかも、「キャラクターはプレイヤーに従う」というコンピュータゲームのお約束を反故にすることによって、逆説的なカタルシスをも与えることができる。まったく強力無比な手法であり、多くの(現代ギャルゲーのほとんどの)タイトルが使用するのもうなずける。
だがやはり、プレイヤーにとってのゲームの基本は入力と出力とインタラクションであり、そこを歪める「過去設定」の手法は取るべきでない、という主張は変わらないのだが。
ところで『はぴねす!』10話、秘宝の暴走と雄真の魔法はどう関係があったんだ?