必要なのは、知識ではなく理解だということか

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080518/1211038930

はじめて小説を書こうという人には、まず小説を読め、と俺は言います。この「読め」というのは、無数の名作をできるだけ多く読め、というのではなくて、何かひとつ気に入った作品を「百ぺんは読め」という意味です。

「よし! とりあえず書いてみるぜ!」 → 「うわっ、つまんねぇのが出来た」 → 「ちくしょう、もう一度書いてやる!」

というサイクルがイキナリ出来る人には、何も言いません。時折教本を示唆するくらいです。


"SF千冊読め"というのは、「SFとは何であるか?」を知るためにはそのくらいの読書量が必要だ、という意味でもあります。多分。俺の発言ではないので推測しか出来ませんが、俺が言うならそのような意味で言います。そして「SFとは何であるか?」を知るためには、SF千冊読むのでも、『夏への扉』を100回読むのでも良いと思うのです。もちろん『幼年期の終わり』でも良い。『ニューロマンサー』はオススメしませんが。モノ作りSFが好きな俺は『楽園の泉』がお気に入りだったりします。
友人と感想を言い合うのなら、どんな読み方をしても構わないでしょう。1,2冊読んでSFを語っても、漫画を語っても、『白い巨塔』を読んで医療問題を語ってもいい。しかし、不特定多数の人間に、意味のある言説を語ろうとするならば、対象への充分な理解が必要となります。不特定多数の人間が持つ理解より、より深い理解を持つ、ということです。
SFを千冊読むことは、各作品を比較検討することから共通項を得、異なる項が何故異なっているのか、を理解することでSFへの理解を深めようという手法であり、1冊を100回読むことで得られたその作品への深い理解を、他のSF作品にも演繹する手法です。どちらもSFを語るために必要な理解を得るための行為です。
リンク元

だから、もし本当にSF小説を語りたいなら、読むのは一冊(多くて二冊)で良い。但し、それは重要な作品である必要がある。そして、それが重要な作品なのだということを、しっかり感じながら読む必要がある。それさえできれば、あなたは自信を持って、SF小説について語ることができるだろう。

この部分が、そういう意味であるなら良いのですが、名作に一度目を通せば良い、という意味ならば、異を唱えたい。SFに限らず、物事はそのように浅薄なものではありませんから。

aurelianoさんが、リンク元のようにさらっと言えてしまうのは、

特に中学3年生の時は、マンガが好きだったから、出版された全ての男性向けマンガ雑誌を読んでいた(少年向けから大人向けまで)。当時の書店は立ち読みができたし、また出版点数も少なかったからそれが可能だった。

という経験のために、作品を分析する力を獲得しているためと思われます。ひとつのジャンルを総ざらえしたことがあるなら、そこで得た理解を他ジャンルに行った際にも利用できますから。"ひとつの作品を100回読む"のと同様に。

なので、いずれのジャンルも極めていない人にはやはり、SFを語るためには「SFを千冊読め」と言うべきだし、あるいは「名作を100回読め」と言いたいのです。